gooブログから引っ越してきました
もとは漢検ブログ、今は主に古典和歌に関する話題を投稿しています
(旧ブログ名 「漢検一級 かけだしリピーターの四方山話」)

クラシック音楽や、放送大学大学院での学びの話題もときおり ^^

放送大学図書館

 一日遅れになってしまいましたが、昨日は放送大学の図書館にこもって作業してきました。

 

 私のところからは車で20分ほど。地元の市営図書館は歩いて3分くらいなので、ちょっと利用するにはそちらの方が便利ではあるのですが、

・古典和歌研究に関する蔵書の品揃えには、やはり格段の差がある

・PC作業も含め、館内の座席で勉強することについて基本的に制限がない

・いつも空いていて、「座席がない」なんてことがない
 (いつも「ガラガラ」です。もったいない!)

などなど、メリットがいっぱい。

 中でも私が「素晴らしい!」と思っているのが、「研究個室」と呼ばれる個室があり、先着順で丸一日利用できること。そしてこれまた空いていて、「埋まっていて使えない」ということは、これまで一回しかありませんでした。単位認定試験の直前期などはそれなりに利用者がいらっしゃるようですが、それでも前日の電話予約でほぼ必ず使えます。

 

 個室で集中できる、何か調べたければそこに文献がいくらでもある、PC作業にも制限なし(音出しはNG)、WiFi も使えるということで、これからもしばしばお邪魔させていただこうと思っています。

 

 

いまやひくらむ 望月の駒

 ここ最近は、和歌の解釈は決して一通りに確定したものではなく、多様な解釈が成立しうるということを学んでいます。実際に考察に取り組んでいる和歌の中から、特に奥深さを感じた紀貫之の一首をご紹介します。

 

  八月駒迎へ

逢坂の 関の清水に かげ見えて いまやひくらむ 望月の駒

『貫之集』第一 第14番、『拾遺和歌集』巻第三「秋」 第170番)

 

 個人的にもともととても好きな一首なのですが、この歌を解釈する上での大きなポイントは、歌われた情景が昼なのか夜なのかという点です。まず、考察の前提となる語義を確認しておきます。

 

駒迎へ
 諸国から献上される名馬を、朝廷の役人が逢坂の関まで迎えに行く行事。八月に行われました。

 

逢坂の関
 近江・山城の国境に位置する逢坂山に置かれた関所。京と東国との間の行き来に、必ず通過する場所です。

 

望月
 通常は「満月」のことですが、この歌では、今の長野県望月町にあった御料牧場(『望月牧』)を指します。ただし、もちろん「満月」の意も念頭に置かれているでしょう。

 

 さて、ではこの歌を解釈するとどのようになるでしょうか。手元にある2種類の注釈書の記述を引用します。

 

 「逢坂の関の清水に、十五夜の月と馬の影とが映っているのが見える。いまや望月の牧の馬が駒牽に引かれていくのであろう。」

(新潮日本古典集成『土佐日記 貫之集』 木村正中 校注)

 

 「逢坂の関の清水に馬体を映して、今、望月の駒を引いているのであろうか。」
 「昼の光景。関を開けなければ通行できぬわけで、夜の光景ではない。」

(私家集全釈叢書『貫之集全釈』 田中喜美春・田中恭子 共著)

 

 上記の通り、一方は夜の情景とし、他方は昼の情景としています。

 この歌は「駒迎へ」という実際に行われていた行事が題材となっていますが、当時は夜といえば基本的に真っ暗。なのでこうした行事が夜間に行われていたとは考えづらく、だとするならば、この歌は昼の情景を詠んだものとの説には一定の根拠があると言えるでしょう。

 

 しかし私は、この歌は夜の情景を詠んだものと解釈したいと考えています。といって、駒迎えの行事が夜間に行われることもあったと主張しているわけではありません。この点でのポイントは、この歌が屏風歌であるという事実だと思います。

 「屏風歌」とは、屏風に貼られた色紙・短冊などに書き付けられ、屏風に描かれた絵やその画題に応じて詠まれた和歌のことです。その特徴として、

①実景を詠んだものではないこと
②かと言って、屏風に描かれた絵をただそのまま描写したものでもなく、屏風絵を題材に、和歌として最も趣向のある場面を創出して詠まれたものであること

があげられます。

 こうした屏風歌の特徴を考え合わせると、この歌は「望月」という牧場名から当然に連想される「満月」に思いを寄せ、名馬が月光に照らされるとともに、その馬体と満月とが揃って水面に映り、朝廷の役人が見守る中、粛々と馬が引かれて行くという幻想的な「和歌風景」を詠んだ歌であると解するのが妥当ではないでしょうか。

 

 実のところ、この歌の解釈・鑑賞のポイントとしては、ここまで記載したこと以外にも、

・「影」に「鹿毛(馬の毛色の種類)」が掛かっているか
・「今やひくらむ」と現在推量(今頃は~しているだろう)が用いられていることからすると、屏風に描かれていたのは駒引きの様子ではなく、逢坂の関の清水に満月が映っている情景だけであったのか

などといった点もあげられ、こうした点においてもそれに言及している文献/していない文献双方が存在します。

 

 ということで、この歌の解釈を考えるには、和歌そのものや使われている語句の正しい理解はもちろん、当時の行事の概要や、実景を詠んだ歌ではなく屏風歌であることなど、さまざまなことを合わせ考える必要があるわけです。なおかつその上でも、専門の研究者の見解も一様には定まらないということですから、古典和歌というのは、本当に奥深い世界だということを改めて実感します。

 

 長い記事に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
 最後にお遊びですが、私が考える解釈に沿って、AIに画像を描いてもらいました。どうせならと思って「屏風絵風に描いてください」とお願いして出力されたのがこの画像です。なかなか良くできていると思います(AIの進化は本当にすごいです)が、いかがでしょうか。

 

和歌の注釈書

  放送大学大学院の修士全科生になって2ヶ月余りが経過しました。思いがけず&折悪しく仕事が多忙で、想定していたほど研究活動に時間も気持ちも割けずにいるのですが、働きながらの就学なので、まあ想定内というべきでしょうか。(結構焦りは感じますけれど ^^;)

 

 そんな中、与えられた課題にほそぼそと取り組んでいますが、私のみならず、ゼミ生全員が指導教授から指摘されているのが、「先行研究を踏まえる」という点が足りないということ。私に関していえば、「例えば古今和歌集なら、世に知られた注釈書が10も20もある。それらを目の前に並べて、すべての内容を確認、吟味しなければならない。自説を構築・展開するのはその上でのこと。」とのご指導。

 

 正直なことを言えば、個々の和歌の解釈ではなく使用されているレトリックに着目しようとしている私にとって、一首一首の和歌について都度10〜20の解釈書の見解を確認することの意味は理解しきれていませんが、とにかくやってみて、その過程で自分にとっての意味が理解できて来ることもあろうと、地元の図書館で定評あるとされる注釈書を借りてきて、「亀の歩み」よろしく一つずつ調べる日々を送っています。

 

 直接の研究対象と考えている和歌だけでも千首以上あり、加えて同時代の歌人との比較もしたいことからすると、まだ始まったばかりなのに果たして論文の作成まで行きつけるのかとの不安も増していますが、時間的制約も含めて、現実の環境の下で自分にできることを半歩ずつでも続けるのみですね。

 

 とは言うものの、どうなって行くことやら ^^;;;

 

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国際子ども図書館

 藝大美術館を出てその足でもう一か所、すぐ近くにある、かねて行きたいと思っていた場所へ。

 

『国際子ども図書館』

 名建築として名高い建物で、ドラマにもなった『名建築で昼食を』にも取り上げられていた場所です。

館内でも特に著名なスポット 階段①

階段②

階段③

階段天井のシャンデリア

外壁面の意匠①

外壁面の意匠②

館内①

館内②

館内③

 図書館に行ったのに蔵書を手に取ったりなどはせず、ひたすら建築を眺める時間でした ^^;;;

 





 




 

藝大美術館『NHK 日曜美術館50年展』

 昨日はお休みをいただいて、東京藝術大学美術館で開催中の『NHK 日曜美術館50年展』に出かけてきました。

 展覧会自体ももちろんなのですが、10年ほど前にこちらの本を読んで以来、「東京藝大」というところにいつかは訪れてみたいと思っていたこともあり、良い機会になりました。

 

 

 ただあいにくかなりの雨☔だったので学内の探索はまたのときとし、美術館だけ見てきました。

 

 雨天の平日でしたが、美術館はそこそこの人出でした。美術好きには人気のある番組なので、関心のある方も多いのですね。

 展示品の中には「撮影OK」のものもあり、皆さんスマホを片手に鑑賞。

パブロ・ピカソ『黄色い背景の女』

オーギュスト・ロダン『考える人』

縄文土器 深鉢 火焔型土器

塩見亮介『白銀角鴟面附白絲縅兜袖』

岡本太郎『遭遇』

 美術館としては小規模ですが、年寄りにはちょうどよい広さといったところ。展示作品がとりあげられた回の日曜美術館のTV映像もそこかしこで放映されていて、それを全部見たらおそらく相当の時間がかかりますが、それはほとんど見なかったので館内にいたのは1時間と少し程度だったでしょうか。

 

 会期はまだ1か月ほどあります(6/21(日)まで)ので、ご関心の向きは出かけて見られてはいかがでしょうか。

 

 

初めての文楽

 今日、初めての文楽観劇に出かけてきました。

 

 日本の伝統芸能ですが、分野としては正しくは「人形浄瑠璃」で、「文楽」は人形浄瑠璃を演じる劇団の名なのだそうです。今では演じる団体が「文楽」だけなので、事実上「人形浄瑠璃」と「文楽」は同じ意味でつかわれる語になったのだとか。

 そんなことすら知らずに「一度くらいは」という程度の思いで出かけたのですが、精緻で細かい人形の動きにはびっくりしました。

 それなりのお値段なので「また行くか?」といわれると何とも微妙です(苦笑)が、私にとってはなにもかも目新しく感じられて、そういう意味では充実した時間でした。 ^^

 

古典和歌の改作

 古典和歌の原文を調べていると、同じ歌が複数の歌集に採録されている事実にしばしば出会います。現代でも、評価の高い歌ほどさまざまな媒体や場所・機会で耳にし、目にする機会が多くあるのと同じで、古典和歌においても名歌とされているものほど歌集編纂時に採録されることが多くなるのでしょう。

 

 ただし、冒頭「同じ歌」と記しましたが、実際のところは歌集によって微妙に語句が異なることが珍しくありません。その原因はさまざまで、編纂者ないし書写者の誤記と思われることもあれば、誤記ではなく意図して改作されたのであろうものなどもあります。(例えば古今和歌集では、古今集の撰者が古歌を「古今風」「古今調」に修正したと思われる例が見られます。「著作権」の概念が確立した現代ではちょっと考えられないことですね。)

 

 そうした「他者による改作(ないし誤記)」とは別に、その歌を詠んだ歌人自身が自作の歌を改作したと思われる例も少なくありません。今日はそんな例を、紀貫之の歌からひとつご紹介します。

 

うばたまの わがくろかみや かはるらむ かがみのかげに ふれるしらゆき

うばたまの わが黒髪や 変るらむ 鏡の影に 降れる白雪

古今和歌集 巻第十「物名」 第460番

 

うばたまの わがくろかみに としくれて    かがみのかげに    ふれるしらゆき

うばたまの わが黒髪にに 年くれて 鏡の影に 降れる白雪

(拾遺和歌集 巻第十七「雑秋」第1158番、貫之集 第九「雑」 第814番

 

 ご覧の通り、上記は「同じ歌」と考えて良いと思われる一方、第二句、第三句が異なります。①の「古今和歌集」は貫之が中心となって編まれた勅撰集ですし、②の「貫之集」は貫之自身の自撰集がベースとなったと言われる歌集ですので、この改作は貫之本人の意思によるものと見なして差し支えないでしょう。そしてこの例では、改作の動機がかなり具体的に推定できます。

 ①は、採録された古今集の部立からも明らかなように、歌意とは関係のない「隠し題」が仕込まれた物名歌です。②と語句が異なるまさにその個所に「わがくろかみや かはるらむ」と、「紙屋川」という地名が詠み込まれていますね。

 さてそれでは、①が物名歌であることを一旦忘れて、両歌を純粋に和歌として比較、鑑賞してみるとどうでしょうか。私を含め、おそらく多くの人が「②の方が歌として優れている」と感じるのではないでしょうか。歌に付された「しはすのつごもりがたに、としの老ぬることをなげきて(拾遺集)」、「十二月晦がた、身をうらみてよめる(貫之集)」という詞書通りに、老いを歎く心情がより良く表現されていると思います。ちなみに①の詞書は「かみやかは」です。物名歌に共通のことですが、①は「かみやかは」という語を詠み込むために表現上若干無理をし、また、和歌そのものとしての出来栄えも通常の和歌とは異なる観点(いかにたくみに隠し題を詠み込むか)に基づいて詠まれていると言えます。

 物名歌はいわば「言葉遊び」の要素が濃いものですが、その制約から自由になった場で貫之自ら物名歌を元に改作し、「最終形」として自撰集に採録したということなのでしょう。

(両歌の作歌時期を確定的に定めることは困難ですから、②が先にあってそれを①の物名歌にアレンジしたとも考えられますが、採録されている歌集の成立時期などから、①を②に改めたとするのが定説ではあるようです。)

 

 

 

土佐日記 二月十六日(2)

(原文)

 夜ふけてくれば、ところどころも見えず。京に入りたちてうれし。家にいたりて門に入るに、月あかければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもまして、いふかひなくぞこぼれ破れたる。家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり。中垣こそあれ、ひとつ家のやうなれば、望みて預かれるなり。さるは、たよりごとに物もたえず得させたり。今宵、かかることと、声高にものもいはせず。いとはつらく見ゆれど、心ざしはせむとす。

 さて、池めいてくぼまり、水つけるところあり。ほとりに松もありき。五年六年のうちに、千歳やすぎけむ、かたへはなくなりにけり。いまおひたるぞまじれる。おほかたのみな荒れにたれば、「あはれ」とぞ人々いふ。思い出でぬことなく、思い恋しきがうちに、この家にて生まれし女子の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。船人も、みな子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきにたへずして、ひそかに心知れる人といへりける歌、

 

  生まれしも 帰らぬものを わが宿に 小松のあるを 見るが悲しさ

 

とぞいへる。なほあかずやあらむ、またかくなむ。

 

  見し人の 松の千歳に 見ましかば 遠く悲しき 別れせましや

 

 忘れがたく口惜しきことおほかれど、え尽くさず。とまれかうまれ、とく破りてむ。

 

 

(口語訳)

 夜が更けてきたので、京の町もこまかには見えないが、京に入れたことが嬉しい。自宅について門を入ると、月が明るいのでそのありさまが良く見えた。聞いていた以上に、家はどうしようもなく傷んでいる。留守中のことをお願いした隣家の人の気持ちも荒んでいるのであろう。中垣があるといってもひとつの家のようなものなので進んで留守を預かってくれたのであろうけれども。それでも、機会あるごとに付け届けも絶えずしてきた。今夜は供の人間に、留守をちゃんとしていてくれなかったというような不満も言わせないようにした。とてもひどいとは思ったけれども、お礼はしようと思う。

 さて、池のようにくぼんで水のたまったところがある。その脇に松も生えている。留守にして五年六年とたつうちに、まるで千年の時がすぎたかのように、半分はなくなってしまった。新しく生えた松も混じっている。松だけでなく、周囲一帯が荒れてしまっていて、「なんてひどいことだ」と人々が言う。何もかもが思い出されてきて、なつかしく恋しい記憶の中で、この家で生まれた女児が一緒に帰って来れなかったことがどれほど悲しいことか。同じ船で旅してきた一行も皆、わいわいと騒ぐ子どもたちに囲まれている。そうしているうちに、やはり悲しみに耐えられず、密かに心持ちをわかりあえている人と呼んだ歌、

 

  生まれた子供は死んでしまってこの家には帰ってこないというのに、そのころの小松が今もなお生えているのを見るのは悲しいことであるよ

 

と詠んだ。それでもなお悲しみがおさまらないのであろうか、またこのように詠む。

 

  亡くなったあの子が千年の命を永らえていたなら、遠い土佐の地で悲しい別れなどしなくてすんだであろうに

 

 忘れることができず、心残りなことは多いけれども、とてもここに書き尽くすことはできない。何はともあれ、綴って来たこの日記も、早々に破り捨ててしまおう。

 

 

「家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり」

 表面的には、荒れ果てているのは家ばかりでなく、留守を頼んた隣人の気持ちも荒んでいるとの記述ですが、あまりにひどい家のありさまに、管理を引き受けた隣人の無責任さを詰る思いを皮肉として表現したと見る解釈もあるとのこと。後続に「おりおりに付け届けもしてきたのに」と恨み言が綴られていることと合わせ考えての解釈でしょう。

 

「さて、池めいてくぼまり~とまれかうまれ、とく破(や)りてむ」

 日記の白眉ともいうべきクライマックス。55日間の日記のところどころで綴られてきた亡きわが子への思いが、ともに過ごしたわが家に戻ったことで一気に溢れ出るくだりです。『土佐日記』が単なる紀行文ではなく、空想だけの物語でもなく、忘れようにも忘れられない亡き愛娘への思いこそをメインテーマに綴られたものであることが明らかになります。したためて来た日記を「とまれかうまれ、とく破(や)りてむ」と結んだ貫之の心中はいかばかりでしたでしょうか。

 

 

 昨年10月に始めた土佐日記全文のご紹介、ようやく最終日までたどり着きました。古今和歌集や貫之集のときと違って不定期の投稿となり、思った以上に時間がかかってしまいましたが、最後までおつきあいくださり、ありがとうございました。

 

 ブログは変わらず続けて行きますので、引き続きよろしくお願いいたします。

 

 

 

土佐日記 二月十六日(1)

 いよいよ最終日の日記です。2回に分けてご紹介します。

 

(原文)

 十六日。今日の夜さつかた、京へ上る。ついでに見れば、山崎の小櫃の絵も、曲の大鉤の像も、かはらざりけり。「売り人の心をぞ知らぬ」とぞ畏怖なる。

 かくて京へ行くに、島坂にて人饗応したり。かならずしもあるまじきわざなり。たちてゆきしときよりは、来るときぞ人はとかくありける。これにも返りごとす。

 夜になして、京には入らむと思へば、急ぎしもせぬほどに、月出でぬ。桂川、月のあかきにぞ渡る。人々のいはく、「子の川、飛鳥川にあらねば、淵瀬さらにかはらざりけり」といひて、ある人のよめる歌、

 

  久方の 月におひたる 桂川 底なるかげも かはらざりけり

 

またある人のいへる、

 

  天雲の はるかなりつる 桂川 袖をひてても 渡りぬるかな

 

またある人よめり。

 

  桂川 わが心にも かよはねど おなじ深さに ながるべらなり

 

京のうれしきあまりに、歌もあまりぞおほかる。

 

 

(口語訳)

 十六日。今日の夕暮れ時、京へと上る。そのついでに見ると、山崎の小櫃の絵も、曲の大鉤の像も、以前と変わらない。一方で「店の人の心まで変わらないかどうかはわからない」ということばが聞こえるかのようだ。

 こうして京へ行くにあたり、島坂にて饗応してくれる人がいる。必ずしもそのようなことをしてくれる必要はないのに。京を離れて行くときに比べると、戻って来るときには、その後の関係を思って人はこのようなことをする。これにも返礼をした。

 夜になるのを待って京に入ろうと思いつつ、さして急ぎもしないでいるところへ、月が出た。月明りの中、桂川を渡る。人々が言うには、「この川は、流れが急で淵が瀬にかわってしまう飛鳥川とは違い、淵は淵のまま変わらない」ということで、ある人が詠んだ歌、

 

  月に生えるという桂の木と同じ名を持つ桂川は、水底に映る月影も昔と少しも変わらないことだ

 

またある人が詠んだ歌、

 

  土佐の地で遥か天空の遠くに想っていた桂川を、感涙に袖を濡らしながら今、渡ったのであるなあ

 

またある人が詠んだ歌、

 

  桂川は、私の心の中にまで流れるわけではないけれど、私が京を懐かしく思う心と同じように深く流れているようであるよ

 

京に到着する嬉しさのあまりに、歌もたくさん詠まれることだ。

 

 

「夜(よう)さつかた」

 「ようさりつかた」が縮まった形。「夜になるころ」「夕暮れ時」の意。

 

「山崎の小櫃の絵」「曲の大鉤の像」

 詳細不明ですが、山崎と曲の地に昔からある店の店頭の看板などのことでしょう。

 

「売り人の心をぞ知らぬ」

 看板などの様子は変わらないが、果たして店の人たちの心はどうだろうかということ。「人はいさ」の歌が思い起こされますね。人の心はとかくうつろいやすいものというのが、特に晩年の貫之が痛感する思いであったのでしょうか。

 

「たちてゆきしときよりは、来るときぞ人はとかくありける」

 自分がいなくなるときには冷たかった人々が、帰って来たとなるともてなしてくれる。それはこれからのために関係をもっておこうということだと、こちらも人の心の移ろい、自身の利得に基づく行為と、皮肉まじりに慨嘆した記載ですね。

 

「久方の」に始まる歌三首

 月に照らされる桂川に京に戻って来た実感、感慨と、土佐の地で遠く京を想っていた日々の回想とをしみじみと詠んだ歌群。

 

 

 

土佐日記 二月十五日

(原文)

 十五日。今日、車ゐて来たり。船のむつかしさに、船より人の家に移る。この人の家、よろこべるやうにて、饗応したり。この主の、また饗応のよきを見るに、うたて思ほゆ。いろいろに返りごとす。家の人の出で入り、憎げならずゐややかなり。

 

(口語訳)

 十五日。今日、車を引いてきた。船内にいるのは不快なので、船を出て人の家に行った。この人の家はたいへん喜んだようで、酒食でもてなしてくれた。この家の主の人柄もよく、そのもてなしも大層なもので、少々煩わしくも思われていろいろと返礼もした。その家の家人の立ち居振る舞いは見苦しいところもなく、礼儀正しいものであった。

 

「車ゐて来たり」

 前日の十四日に「今日、車京へとりにやる」とあったその車が到着したということ。

 

「むつかし」

 古語では困難という意味ではなく、不快感や精神的なわずらわしさを表します。

 

「饗応したり」

 「饗応」は「あるじ」と読み、酒食を供してもてなす意。十二月二十六日の日記にも出て来ました。

 

「この主の、また饗応のよきを見る」

 「よき」は「主」「饗応」の両方について言っています。「主(の人柄)も良く、饗応(もてなし)も良い」ということですね。上記の通り「饗応」は「主」と同音ですから、それを重ねるレトリックが用いられているということでしょう。

 

「うたて思ほゆ」

 たいそうなもてなしが、やや過度に感じられたということ。

 

「ゐややかなり」

 漢字では「礼やかなり」で、礼儀正しい意。

 

 次は二月十六日、最後の日記です。

 

 

 

 

土佐日記 二月十二日、二月十三日、二月十四日

(原文)

 十二日。山崎に泊れり。

 十三日。なほ山崎に。

 十四日。雨降る。今日、車京へとりにやる。

 

(口語訳)

 十二日。山崎に泊まった。

 十三日。引き続き山崎に。

 十四日。雨が降った。今日、車を京に取りに行かせた。

 

 

「車京へとりにやる」

 下船のとき(と場所)が近くなったので、京の自宅へ車を取りに行かせたということでしょう。

 

 土佐日記は二月十六日までの日記ですので、あと二日になりました。

 

 

土佐日記 二月十日、二月十一日

(原文)

 十日。さはることありて、上らず。

 十一日。雨いささかに降りて、やみぬ。かくてさし上るに、東のかたに山の横ほれるを見て、人に問へば、八幡の宮といふ。これを聞きてよろこびて、人々拝み奉る。

 山崎の橋見ゆ。うれしきことかぎりなし。ここに、相応寺のほとりに、しばし船をとどめて、とかくさだむることあり。この寺の岸ほとりに柳おほくあり。ある人、この柳の影の川の底にうつれるを見て、よめる歌、

 

  さざれ波 寄するあやをば 青柳の 影の糸して 織るかとぞ見る

 

 

(口語訳)

 十日。差し支えることがあり、とどまる。

 十一日。雨がたいそう降って、止んだ。そこで出航したところ、東の方角に山が横たわっているのを見て、人に聞いたところ、八幡の宮ということであった。これを聞いて喜び、人々は皆拝み奉った。

 山崎の橋が見えた。うれしいことこの上ない。そこで、相応寺のあたりにしばらく船を留めて、上陸の手はずなどをなにかと相談した。この寺の岸のそばには柳がたくさんあった。ある人が、この柳が川の底に映っているのを見て詠んだ歌、

 

  さざ波が寄せて揺れる水面の様子が、まるでそこに映る青柳を糸にして織った織物であるかのように見える

 

「八幡の宮」

 石清水八幡宮を指す。皆、良く知るなじみの宮が見えて、いよいよ都が近いと喜んだということですね。

 

「山崎」

 現在の京都府乙訓郡大山崎町でしょうか。京都の中心部まで、直線距離でもうあと5キロほどです。

 

「さざれ波~」

 貫之歌の特徴の一つであり、私の大学院での研究テーマでもある、水面に映る情景を詠んだ一首。貫之集 492 に類歌が採録されています。

 

  みづのあやの みだるるいけに あをやぎの いとのかげさへ そこにみえつつ

  水のあやの 乱るる池に 青柳の 糸の影さへ 底に見えつつ

 

 

 

土佐日記 二月九日(2)

(原文)

 かく上る人々のなかに、京より下りしときに、みな人、子どもなかりき、いたれりし国にてぞ子生める者ども、ありあへる。人みな、船のとまるところに、子を抱きつつおり乗りす。これを見て、むかしの子の母、悲しきにたへずして、

 

  なかりしも ありつつ帰る 人の子を ありしもなくて 来るが悲しき

 

といひてぞ泣きける。父もこれを聞きて、いかがあらむ。かうやうのことも、歌も、好むとてあるにもあらざるべし。唐土もここも、思ふことにたへぬときのわざとか。

 今宵、鵜殿といふところに泊る。

 

 

(口語訳)

 こうして川を上る人々の中に、京から下るときには、皆、子がいなかったけれども、着任した国で子を産んだ者がいあわせた。その人たちは皆、船が岸に着いたところで、子を抱きながら船に乗り降りする。これを見て、今は亡き子の母は、悲しみが絶えず、

 

  子のなかった人も任地で生まれた子を連れて帰るのに、子のいた私たちが子を亡くして京に帰って来ることが悲しい

 

と言って泣く。その父親もそれを聞いて、どんな気持ちであろうか。こうして歎くことも歌を詠むことも、好んでそれをするというものではないであろう。唐土の地においてもここでも、悲嘆し歌を詠むというのは、耐えがたい思いにかられたときになすことなのであろう。

 今宵は、鵜殿ということろに泊る。

 

「唐土もここも」

 「毛詩序」の「言之不足 故嗟歎之 嗟歎之不足 故詠歌之」(之を言うに足らず、故に之を嗟歎す。之を嗟歎するに足らず、故に之を詠歌す。)を踏まえた記述。貫之が「古今和歌集仮名序」に記した「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、たけき武士の心をもなぐさむるは歌なり」も、「毛詩序」を踏まえた記述でしたね。

 

「鵜殿」

 大阪府高槻市の地名。いよいよ京が近づいてきました。

 

 

 

土佐日記 二月九日(1)

(原文)

 九日。心もとなさに、明けぬから、船を曳きつつ上れども、川の水なければ、ゐざりにのみぞゐざる。

 この間に、曲の泊りの分れのところといふところあり。米、魚など乞へば行ひつ。

 かくて、船曳き上るに、渚の院といふところを見つつ行く。その院、むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりけるところなり。しりへなる岡には松の木どもあり、中の庭には梅の花咲けり。ここに、人々のいはく、「これ、むかし、名高く聞こえたるところなり」、「故惟喬の親王の御供に、故在原業平の中将の、

 

  世の中に たえて桜の 咲かざらば 春の心は のどけからまし

 

といふ歌よめるところなりけり」。いま、今日ある人、ところに似たる歌よめり

 

  千代へたる 松にはあれど いにしへの 声の寒さは かはらざりけり

 

また、ある人のよめる

 

  君恋ひて 世をふる宿の 梅の花 むかしの香にぞ なほ匂ひける

 

といひつつぞ、都の近づくをよろこびつつ上る。

 

(口語訳)

 九日。じれったさに夜が明けないうちから船を曳いて川を遡上するけれども、川の水が少なくて、もっぱらいざるような進み方しかできない。

 この間、曲の泊という川が分岐しているところがあり、そこの民に、米や魚を乞われたので施した。

 こうして船を曳いて川を遡り、渚の院という場所を見ながら進んで行く。そこは、昔のことを思いながら見ると、趣のある場所であった。後方の岡には松の木があり、中ほどの庭には梅の花が咲いている。そこで人々が言うには、「ここは昔、名高いと言われた場所である」「亡き惟喬親王に御供した亡き在原業平の中将が、

 

  世の中に桜というものがまったく咲かなかったならば、春はさぞ心おだやかにすごせる季節であったであろうに

 

という歌を詠んだ場所である」と。今、現にここにいる人が、この所縁ある場所にふさわしい歌を詠んだ。

 

  千年の時を経た松だというのに、寒々とした松籟の響きは昔と変わるところはない

 

また、ある人が詠んだ歌に、

 

  主を恋慕って年月を経たこの院の梅の花が、昔のままの香りを今も匂わせていることよ

 

と言いながら、都が近づいて来ることを喜びつつ川を上ってゆく。

 

 

「曲(わだ)の泊りの分れのところ」

 淀川が大阪湾に注ぐ河口付近で神崎川と合流するあたりのことのようです。船はすでに「渚の院(現在の枚方市渚)」まで来ていますので、そこよりはかなり下流の場所。ですので、少し前の出来事を綴っていることになりますね。

 

「世の中に~」

 古今和歌集53番にも採録された著名な歌ですね。ただし古今集では、第三句が「なかりせば」となっています。一月二十日の日記の阿部仲麻呂の歌もそうでしたが、土佐日記で他の歌人の歌全体を引用する際は、そのままではなく少し字句を変えて記載しているようです。

 

「千代へたる~」

 歌中の「声」は松の声、すなわち松籟のことでしょう。

 

「君恋ひて~」

 梅の花が昔と変わらない香りを匂わせているという主題は、「人はいさ 心は知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂ひける」の歌(古今集0042貫之集790)と共通ですね。

 

 

土佐日記 二月八日

(原文)

 八日。なほ川上りになづみて、鳥飼の御牧といふほとりに泊る。今宵、船君例の病起りて、いたくなやむ。

 ある人、あざらかなる物持て来たり。米して返りごとす。男どもひそかにいふなり。「飯粒してもつ釣る、とや」。かうやうのこと、ところどころにあり。今日節忌みすれば、魚不用。

 

 

(口語訳)

 八日。引き続き川を遡り、鳥飼の御牧というあたりに泊まる。今宵、船主のいつもの病が生じて、たいそう辛そうである。

 ある人が、新鮮な魚を持ってきた。お米でお返しをする。男たちがひそかに言う、「世間では、飯粒でむつを釣るというではないか」と。このように、ものとものと交換するようなことが、他の場所でも時々あった。今日は斎日なので精進のため魚は使わない。

 

「鳥飼の御牧」

 現在の大阪府摂津市鳥飼。御料牧場があった。

 

「例の病」

 持病、ということと思われますが、ここまでの日記にこれに言及した箇所はありません。船酔いのこと、という解釈する向きもあるようです。

 

「あざらかなるもの」

 漢字では「鮮らかなるもの」、つまり新鮮なものという意味ですね。あとに続く文章から、ここでは具体的には新鮮な魚であることがわかります。

 

「節忌」

 「せちみ」。一月十四日にも出て来ましたが、毎月の斎日(さいにち。 8日、14日、15日、23日、29日、30日。)に精進潔斎することをいいます。